民主主義のその先へ(2)

Against Democracy

前回の話の続き。

民主主義においては有権者が意志決定を行うわけだが、その肝心の有権者が有する政治的知識は非常に乏しく、まあそんなことは大昔から皆うすうす気づいていたわけだが、最近の米国ではそれがデータで実証されてしまった、というのが先の話の結論の一つである。また、有権者の知識が乏しいのは必ずしも知的能力が低いからということではなく、合理的と言うか常識的に考えれば、何の得もないのにわざわざ面倒な思いをして政治のことなんか勉強しないよね、というのが「合理的無知」の概念であった。有権者が政治に無知や無関心なのは民主主義のバグではなく仕様、ということだ。

ところで、著者のブレナンが有権者をホビット、フーリガン、バルカンに大別するとき、バルカンは基本的に存在しないものと考えられている。バルカンは想像の産物であって、この世にはホビットとフーリガンしかいない。しかも、政治的に影響力があるのはフーリガンのみなのである。

ホビットはともかく、なぜ我々はバルカンではなくフーリガンになってしまうのか。それは、そもそも人間の精神の働きに「くせ」のようなものがあるからだ、というのがブレナンの主張だ。それを実験や調査で裏付けてきたのが、カーネマンセイラーらの本でポピュラーになった行動経済学や認知心理学である。確証バイアス(先入観と合う都合の良い情報を受け入れがち)、逆確証バイアス(先入観と衝突する都合の悪い情報は受け入れにくい)、動機づけられた推論(信念と合うような結論を導きがち)、内集団バイアス(グループの「内」には甘く「外」を敵視しがち)、可用性バイアス(思い浮かべやすいことほど重視しがち)、事前態度効果(その問題を重視する人ほど極論に走りがち)、あるいは同調圧力や権威への迎合といった、今では広く知られるようになったコンセプトを用いて、ブレナンは我々人間が本来的に非合理であって、客観的で冷静な、ある意味で「非人間的な」バルカンにはなり得ないことを説明しようとする。そして、インターネットによる情報流通やコミュニケーションの容易化は、フーリガンのフーリガンたる由縁をさらに悪化させる方向に働いてしまう。何せ、自分の気に入る情報だけがいくらでも手に入るのだから。

さて、民主主義には、政治参加と議論によって有権者の意志決定の質を上げ、さらにそうしたプロセスを通じて有権者自身をも向上させうるというロマンティックな「夢」があった。しかし、我々がどうしようもなくフーリガンであるならば、こうした夢の前提は崩れてしまうことになる。例えば政治参加に関して、ブレナンは政治学者サラ・バーチ(Sarah Birch)の研究(Full participation: A Comparative Study of Compulsory Voting)を引き、義務投票制(compulsory voting)の国とそうでない国を比較したときに、義務投票制が有権者の政治的知識を向上させるという証拠もなければ、有権者の政治活動がより活発になるという証拠もないことを示す。日本でも投票率を上げるということが自己目的化しているが、政治参加するからといって、それによって有権者の質が高まるというわけではないのである。

そしてブレナンがやり玉に挙げるのが、日本でもポピュラーな熟議民主主義だ。忌憚の無い議論によって有権者の相互理解が進み、それによって意志決定の質が向上する、というのが熟議民主主義の理想だが、ブレナン流に言えば、バルカン同士、あるいはバルカンとホビットなら熟議は成立するものの、フーリガン同士、あるいはフーリガンとホビットでは成立しない。よって、この世界の多くの場合において熟議民主主義は機能しないのである。理論的には、フーリガンは様々なバイアスにより自分の信念とぶつかる意見を受け入れないから、というのが理由だが、ブレナンは政治学者タリ・メンデルバーグ(Tali Mendelberg)の熟議民主主義研究に関するサーベイを基に事例や実験の結果を検討し、実証的にも、熟議民主主義がもたらすメリットは存在しないか、極めて少ないと結論づけている。現実の熟議は、極論同士のぶつかり合い(政治学者キャス・サンスティーンの言う「集団極性化」)か、感情論の応酬か、声高な一部による議論の支配や誘導か、あるいはコンセンサスに至れそうな当たり障りのないテーマに終始するか、そのあたりに落ち着いてしまうのだった。さらにブレナンは一歩踏み込んで、そもそも政治参加や熟議のせいでフーリガンたる有権者の分断や対立が一層進むのだから、政治参加は有害だ、とまで言い切るのである。私は疑り深い人間なので、ブレナンもフーリガンなのだし自分に都合の良い論拠をチェリーピックしているのではないかと思って熟議民主主義に関する文献をいくつかぱらぱら読んでみたのだが、熟議民主主義の困難というタイトルの本が出ているくらいで、それなりに工夫はあるもののブレナンの主張を全否定するというところまではいかないらしい。

ちなみにブレナンは、有権者の多くがフーリガンで認知に偏りがある、ということを前提にすると、コンドルセの陪審定理やホン=ペイジの「多様性が能力に勝る」定理といった、計量政治学の分野で有名な、必ずしも知識や能力がある人間で集団が構成されていなくても、多数決が適切な結果をもたらすことを保証する定理のいくつかが成立しなくなる、という議論も展開している(第7章)。この章でもう一つ面白いのは政治学者マーティン・ギレンズ(Martin Gilens)の研究の紹介で、これまでの米政権の政策は富裕層の選好と付合するということが分かっているそうだ。すなわち、個々の政策に関して、低所得層、中所得層、高所得層、それぞれに支持や不支持があるわけだが、結局のところ高所得層の意向が反映されやすいということである。こう書くと金持ち優遇ではないか、癒着ではないかと批判的に捉える人が多いと思うが、実は、イラク戦争への反対、LGBTQへの寛容、市民的自由の擁護、そして様々な階層への目配りなど、いわゆるリベラルな政策への支持は、所得が上がれば上がるほど高まるということも分かっている。ちなみに、一般的にはネオコンの走狗で金持ちの手先、というイメージが強かったブッシュ(息子)の政権期だけは、低所得層の選好とマッチするのだという。低所得層は、民主党支持であっても実はかなり保守的なのである(これがトランプ大統領誕生につながった)。いずれにせよ、民主主義の本家本元と思われていた米国が、実は金持ちエリートの寡頭支配で、おまけにそれは国民の大多数にとって別に悪いことではなかった、というのはなかなか皮肉で面白い。

まとめると、民主主義は理論的にうまくいきそうにないし、実証的にうまくいっていないし、ではなぜそれが最近までうまくいっているように見えたのかと言えば、実は(少なくともアメリカでは)実質的に民主主義ではなかったから、ということになる。そこで、民主主義がダメというならどうするんだという話になるわけだが、そこでブレナンが持ち出すのがデモクラシーならぬエピストクラシー(epistocracy)というコンセプトだ。元のギリシャ語はエピステーメー+クラティアということで、「知識ある者の支配」という意味になる。すなわち、政治的な権力が、平等ではなく、何らかのかたちで知識の差によって重みづけられる体制がエピストクラシーだ。

この後エピストクラシーの具体的内容の話になるわけだが、切りが良いので続きはまたそのうち。

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マルマン スケッチブック セクションクロッキーブック S237

マルマン スケッチブック セクションクロッキーブック 白クロッキー紙 10mm方眼罫 S237

A4くらいの広い紙面に(以下略)、とにかくスケッチブックをいたずら描きに使うという発想が、実は最近まで無かったのである。いたずら「描き」といいつつ実際は文字を書くことが多く、絵と言ってもポンチ絵や表程度なので、スケッチ専用ノートであるところのスケッチブックは候補にならなかった。

最近になって、たまたまこの若干マイナーな(といっても建築とかの世界ではポピュラーなのかもしれないが)クロッキー帳のことを知って使ってみたのだが、これは素晴らしいですね。そもそもマルマンのクロッキーというと茶色の表紙とナチュラルな色の無地の中紙が思い浮かぶわけだが、このS237という品番のやつは黒表紙で真っ白な中紙である。で、10mmというか1cmという珍しいサイズの方眼が書いてある。普段は3mm方眼の測量野帳や5mm方眼のノートに慣れているので、1cmというと大分大きく見えるのだが、これはこれでいたずら描きのガイドには十分だ。裏には方眼が書かれていないので、半分は無地としても使える。

表紙はほどよく硬く、リングノートなので360度ひっくり返せば表紙二枚分の下敷となり、立ったままでも十分書ける硬度となる。正直リング綴じは利き手と逆側のページへ書くとき手に当たるのであまり好きではないのだが、このノートはA4判で紙面が大きいのであまり気にならない。横にしても、天地逆にして書いてもいいですしね。

そして何より紙質が素晴らしい。太字の万年筆やローラーボールなど、紙によっては裏に抜けてしまうようなシャバシャバしたインクもまず大丈夫だし、まあ本来の用途がクロッキーだから当たり前だが、鉛筆やシャーペンなど黒鉛系の筆記具の乗りも良い。おまけにサイズと綴じ枚数を考えると、あり得ないくらいに軽い。ランニングコストも数百円と、一冊数千円するくせにちょっと太い万年筆はすぐ裏抜けするそこらの高級ノートとは雲泥の差である。A4の紙ノートはこれでファイナルアンサーというか、もう探さなくてもいいなあ。

民主主義のその先へ(1)

Against Democracy

先日のフェイクニュースの話の続き。

米国におけるトランプの当選や英国におけるブレグジット(EU離脱)への賛成が象徴するように、いわゆる先進国でこのところ、民主主義の機能不全が表面化してきた。こう書くと、いやトランプの当選は当然だとかブレグジットの何が悪いんだと言う人もいると思うのだが、私のようなヒラリー・クリントンや米民主党の政策にかなり批判的な人間から見ても、やはりトランプには大統領としての能力が全然無いと思うし、ブレグジットについても、英国が得をすることはほとんど無いというのがコンセンサスだと思う。お世辞にも、賢い選択をしたとは言えない。

トランプやブレグジットは目立つ例だが、ドイツやフランス、イタリアのような他の先進諸国においても、いわゆるポピュリスト(大衆迎合主義者)たちが力を増してきている。米国にしろEUにしろエリートの腐敗というのはあるわけで、反エリートの主張にも一定の意味はあるのだが、総じてこの種のポピュリズム政党は、冷静に考えればつじつまの合わない人気取り政策をぶち上げることが多い。いい加減な主張で離脱キャンペーンをさんざん煽っておいて、投票が終わったあとにあれはウソでしたとあっさり認めた英国のUKIP(独立党)はその最たるものだと思う。しかし、キャンペーン中にも彼らの主張のでたらめさは散々メディアで批判されていたわけで、それでもなお、彼らを選んだのは英国民なのである。昔のヒトラーと同様、完全に民主主義的な意志決定の結果として、変な奴、変な政策が選ばれるということが増えてきている。

このような不合理な結果の、全てでは無いにしろいくつかは、ロシアやら北朝鮮やらの暗躍による、サイバー攻撃やらフェイクニュースやらのプロパガンダによって引き起こされたのだ、という主張もある。確かに、例えばロシアがヒラリー陣営のメールを盗んでばらまいたり、Facebook上でいろいろちょっかいを出していたのは事実らしく(Wikipediaのエントリ)、それはそれで重大な問題なのだが、しかしそれが実際の有権者の投票行動にどこまで影響していたのか、というと、これはまた別の話だ。例えば、トランプに投票した人は高齢者が多かったと言われているが、Facebookユーザの多くを占めているのは若年層で、彼らの多くはヒラリーに投票したのである(Statistaのデータ)。プロパガンダの有無はともかく、その影響の大小を評価するのは極めて難しい。データ・サイエンティスト界(?)のスターとなったFiveThirtyEightのネイト・シルヴァーも、つい最近「非常に難しい」と認めていた。

それはそれとして、多くの有権者がプロパガンダに踊らされたというなら、その理由を考えてみる必要がある。一つは、有権者は本来合理的な判断を下すのに十分な能力を持っていたにも関わらず、巧妙なプロパガンダにうっかりだまされたという見方である。この場合は、先日の話で言えば、ファクト・チェックを徹底するなど、フェイクニュースの供給側を絞れば事態は改善するかもしれない。しかし、もう一つの、より悲観的な見方もある。それは、多くの有権者にはほとんど何の政治的な知識も無く、関心も無く、一方で知識はないのに好みや思い込みとして大きな偏りがあるので、各々の偏りに応じて、自分の見たいものを見て、自分の信じたいものを信じ込み、まことにテキトーに意志決定している、という可能性である。この場合、フェイクニュースはトンマな意志決定の原因ではなく、結果に過ぎないのだ。

後者は、従来だと民主主義批判、大衆批判、あるいはもっとストレートに衆愚批判と言っていいかもしれないが、そう言った文脈でよく語られてきたことで、大昔からよくある話ではある。プラトンの『国家』あたりが嚆矢で、オルテガの『大衆の反逆』やニーチェが代表格だろうか。日本でも、先日亡くなった西部邁など何人か論者がいたように思う。

しかし、今までの民主主義批判は、2つの点で弱いものだった。一つは、論拠の多くが結局のところ論者の主観というか、せいぜい私はこう思いますとかこんなこともありましたというエピソード的なものであって、客観的な説得力に欠けたことである。そしてもう一つは、民主主義への別の具体的選択肢を提示できなかったことだ。まあ、オルタナティヴとしてファシズムや共産主義、あるいは封建主義を唱えた人もいたが、21世紀の今となっては、それほど説得的ではあるまい。

ところが、ここ10年くらい、アメリカのリバタリアン系の若い学者たちが、民主主義批判2.0とでも言うべき著作を多く発表している。邦訳のあるものとしては、原著は2007年に出たブライアン・キャプラン(経済学者)の『選挙の経済学』や、原著2013年のイリヤ・ソミン(法学者)の『民主主義と政治的無知』などがあるが、最近私が読んだこのジェイソン・ブレナン(政治哲学者)による2016年発表の『Against Democracy』が、「反・民主主義論」というタイトルの出落ち感も含めて、読み物として最も読みやすかった。邦訳は出ないかねえ。

これらのどのへんが2.0なのかというと、一つは政治学に経済学、特に公共選択論のノウハウが持ち込まれたということで、これによって、有権者の行動をミクロ経済学的な枠組みで分析できるようになった。もう一つは調査データの分析に基づく議論ということで、人間の政治意識や政治行動に関する調査自体は大昔から世界各地で行われてきたのだが、近年のコンピュータの進歩と相まって、蓄積された膨大なデータを適切に処理できるようになってきたのである。結果として、有権者がどの程度「合理的」なのか、定性的のみならず定量的な話が出来るようになってきたわけだ。

では、こうした最近の計量政治学の研究からどういう結果がもたらされたのかというと、これがあまり元気の出る話ではない。というのは、調査やアンケートにより、少なくとも米国では、データ的に「有権者は本当に何も分かっていない」ということがほぼ立証できてしまった、というのが、この本(および類似の研究)の一つの柱だからである。

選挙期間中にも関わらず、自分の選挙区から出馬している候補の名前を一人も挙げられない、現在議会で多数派を占めているのが共和党なのか民主党なのか分からない、三権分立の三権が何か分からない、自分が「支持」する政党の政策を全く理解していない、ある政策が共和党政権下で推進されたのか民主党政権下で推進されたのか分からず、ブッシュやオバマが実際にはやらなかったことに関してけしからんと思い込んでいる、憲法が大事と言いつつ、そもそも憲法でどのような権利が保障されているかほとんど理解していない、ひどいのになると、社会主義を蛇蝎のごとく嫌っている(とされている)にも関わらず、「To each according to his abilities, from each according to his needs」(能力に応じてではなく、必要に応じて与えられるべきである)という一節が米国憲法に入っていると思い込んでいる(これは本当はマルクスの言葉で共産主義の有名なスローガン)などなど、ブレナンの本の第2章には様々な調査結果の事例が挙げられている。この章のタイトル「Ignorant, Irrational, Misinformed Nationalists」(無知で、非合理的で、誤った知識を持つ民族主義者)というのが、ブレナンらがデータで描き出す米国の有権者像なのだ。日本に関しても、似たような調査をすれば似たような結果が出るのではないかと思う。

問題が有権者の知識不足だけならば、教育を充実させる等の手は打てるかもしれない。しかし、ここ40年、進学率は高まる一方で、図書館やインターネットから低コストでいくらでも知識が手に入るのに、40年前と政治に関するリテラシーのレベルはほとんど変わりがないという調査もある。だからといって、有権者が総じてバカというのも早計だろう。当然有権者(の大多数)がバカなわけではなくて、むしろ「合理的であるがゆえに、政治に関して勉強しない」というほうが、説明として理にかなっている。これが、「合理的無知」(rational ignorance)の考え方である。貿易政策にしろ、エネルギー政策にしろ、きちんと理解するには膨大な量の勉強が必要となるわけだが、勉強して自分の考えを確立したところで、自分の一票が政策に影響を与える可能性は宝くじが当たる確率並みに低い。知識を得るのにかかるコストが期待される利得を大きく上回るので、そもそも苦労して学ぶインセンティヴが無いわけだ。

さらに、大多数が本当にまっさらな無知で、政治に全く関心が無いならば、トンマな意志決定は賛成と反対で大体打ち消し合うはずで、結果として1%だか2%だかの知識がある人がキャスチングボートを握る可能性が高い(「集計の奇跡」と呼ばれる)。しかし実際には、自分にとって合理的な選択よりも、自分の信念やバイアスに適合する選択を重視するという人が多いのである。

ブレナンは、このあたりの事情をなかなかうまい表現で説明している。彼は、有権者をホビット、フーリガン、バルカンの三つに大別する。ホビットはいわゆるノンポリで、有権者の大多数を占めている。政治に対して関心はない。対してフーリガンは、スポーツ・ファン的にある党派やある政策を熱狂的に「応援」していて、ホビットよりは政治知識があるのだが、正確というわけではない。非常に偏った思い込みがあり、理性よりは感情を優先する(数学の成績がよく知的能力が優れていると思われる人ですら、自分の政治的志向と相容れない意見は合理的であっても受け入れないという研究がある)。バルカンはスタートレックに出てくるミスター・スポックのように常に冷静で、偏見に惑わされることなく意志決定が出来る少数派である。で、当然バルカンは(自分がそうだと思い込んでいる人は多いかもしれないが)ほとんどいない。結局実際に熱心に政治参加するのはフーリガンで、それにホビットが煽られるという構図である。また、自分の商売でトンマな意志決定をすると金銭的、社会的に大損害を被るが、先にも述べたように一票の重さは限りなく軽いので、自分の一票が結果に影響を与えるとは考えにくい。このため、選挙における投票はいわば自己表現の手段となってしまう。結果として、誰の得にもならないような変な選択肢が選ばれてしまうということになる。

このへんまではキャプランの本にも書かれていたことで、実はそんなに新味はないのだが、ブレナンの本はこの先で民主主義への(ぼんやりしたものだが)代替案を出しているところがおもしろい。続きはまたそのうち。

トトノエ クリップボード A4

トトノエ クリップボード A4 ブラック TCB00A4-BK

A4くらいの広い紙面にさっといたずら描きをするための何か、を模索し続け三十余年になるわけですが、という同じ出だしで先日もエントリを書いたばかりだが、これもその模索の一環である。同じシリーズの、5×3のいわゆる情報カードや名刺サイズのカードを使う小さいバージョンは数年来愛用しているが(3年前にエントリを書いた)、A4版も買ってみた。というか、これも結局コクヨ関係の製品か。

ようするにA4のクリップボードなのだが、紙製なのが珍しい。クリップや四隅ではなく、下にベロのようなものがついていて、ここに紙を挟むようになっている。先日取り上げたHINGEと同じシステムだが、あちらが真似したのかな?裏には予備の紙と名刺(?)を差せるスロットがあるが、ここはやや使いにくい。

この使いにくさと関連するのだが、本当に硬いので、予備の紙は差し込みにくいし、持ち歩くと案外取り回しが悪い。5×3とかの小さなサイズだと気にならないし、むしろ安定して書けるので好ましいのだが、やわな鞄だと鞄のほうが負けて痛みそうである。今は卓上で使っている。ジョッター的なものは、柔らかいと書きにくいし、硬すぎるとかさばるし、なかなか難しいものですね。

コクヨ K2 マッハボール

コクヨ なめらか ボールペン K2 マッハボール ノック式 10本入 黒 K2PR-NB207DX10

別にコクヨから金をもらっているわけではないので褒める義理はないのだけれど、最近はなぜかコクヨの文具製品に感心させられることが多い。近頃よく使っているこのボールペンも、よくよく見たらコクヨの製品だった。どこで買ったかすらよく覚えていないのだが…たぶん世界堂?

調べてみると一本税込約75円というウルトラ安物で、基本的には業務用らしいのだが(そのせいかAmazon.co.jpでは10本単位でしか売っていない。といっても755円だけど…)、実に良い書き心地である。低粘度油性ボールペンというと三菱鉛筆のジェットストリーム、パイロットのアクロインキ、ぺんてるのビクーニャが御三家だと思うが、コクヨもマッハインクというのをやっていたのですね。全く知りませんでした。どこかのOEMなんだろうか?ネットを検索してもまるで情報が出てこないのだが、私以外にもこれに感銘を受けた人のブログが出てくるので、まあみんな使うと感心するんでしょう。ほとんど使い捨てのような値段にも関わらずちゃんと替芯も用意されていて、いよいよ感心させられる。

そしてデザインが優れている。まあ値段が値段なので高級感は全く無いわけですが、頭から尻尾まで流れるようなフォルムになっていて、素材ではなく造形一本で勝負というすがすがしさがある。パイロットのジュースアップとかのどんくさい感じと比べると一日の長があると思うのですがいかがでしょう。

コクヨ ドローイングマーカー

コクヨ マーカー ドローイングマーカー 固形 蛍光色 5色 KE-SP3-5

別に蛍光ペンと右翼のことばかり考えて人生を過ごしているわけではないのですが、コクヨも去年、新たに蛍光クレヨンというか固形蛍光マーカーを出していたらしい。最近人に教えてもらいました。

ドローイングマーカーと銘打ったシリーズで、どうも半分画材扱いのようなのだが、蛍光イエローや蛍光グリーンはハイライターとして十分使える。書き心地がぬるぬるなのはもちろん、形が四角形なので狙ったところに塗りやすいし、裏抜けもしない。先駆者であるステッドラーのテキストサーファーゲルのように、ぼろぼろダマが残って他を汚すということも少ない。がーんと新しいものを打ち出すイノベーターにはなれないが、ちまちま実用性を上げるのは得意という、日本企業にありがちな話のように思った。この手のものとしては珍しくリフィルが用意されているのも良心的だ。パッケージングも洋風というか、なかなか洒落ている。三菱鉛筆にこういうセンスがあれば…。

Parafernalia FALTER 2D

(パラフェルナリア) PARAFERNALIA パラフェルナーリア FALTER 2D ボールペン

イタリアの文具メーカー、パラフェルナリア(Parafernalia)が好きだ。一昨年、ベルリンのバウハウス・アーカイヴを訪れたのだが、ミュージアム・ショップで売られていた文具は、ご当地ドイツのLAMY、このイタリアのパラフェルナリア、そして日本のトンボ・デザイン・コレクションだけだった。昔ながらの日独伊枢軸という訳ですが、実際デザインという見地からすれば、美術館で売るならこの3ブランドでしょうね。LAMYと同様、社外のデザイナーと共同で製品開発しているようだが、それでもLAMYとTOMBOWは大手だからか、実用性に一定の配慮をしてしまいがちなのに対し、パラフェルナリアは完全にデザインだけに振り切っていて、はっきり言って使い勝手は悪い。それもまあ、ブランドの個性ということでしょう。日本だと、実店舗で扱っているところはほぼ無いと思うが、ネット通販ならそれなりに手に入る。

【PARAFERNALIA パラフェルナリア】 Revolution シャープペン オレンジ

1968年に設立されたパラフェルナリアの製品で一番有名なのは、1978年に発表された異様な構造を持つペンのRevolutionだと思うが、自分で一枚板から組み立てろというこのFALTER 2Dも相当頭がおかしい。見た目の優美さは素晴らしく、クリップとノック機構(のようなもの)もあり、スタンドとなぜか定規まで付いてくるという大変なお買い得品なのだが、単純な割になかなか組み立ては難物で、しかも書くといろいろなところが指に当たって痛い。でも、やるんだよ。リフィルはパーカータイプなので、最近出たジェットストリームを使えば、書き味だけは良くなります…。

組み立て方の動画。いや、たぶんこんなにスムーズに行かないよ…。