自衛のための勉強法

長谷川豊というアナウンサーが、ここしばらく派手に「ネット炎上」していた。人工透析患者の大多数は暴飲暴食の果ての自業自得なので殺してしまえ、というようなことを、乱暴な口調でおおっぴらにブログに書いたからである。

人工透析を余儀なくされる理由は不摂生だけではないし、そもそもそれなりに影響力のある人物が殺人を扇動するようなことを書くべきではない。粗雑な論であることは言を俟たない。

とはいえ、どんなにろくでもないことでも書くのはそいつの勝手だと私は思っているのだが、問題は書いた後である。当然ながら長谷川は多くの批判を浴びたわけだが(そのうちのいくつかは、極めて懇切丁寧に長谷川の主張の問題点を指摘していた。たとえばこれ)、長谷川としてはあくまで問題は書き方であって、自分の主張そのものが間違っている、ということには思いが至らないらしい。患者団体等からの抗議にも誠実に向き合っているとは言えない。

一方で、私は同情こそしないものの、ある意味長谷川は気の毒だとは思っている。というのも、結局のところ彼は変な取り巻きに変なことを吹き込まれて、それが変であることに気づけなかったからである。長谷川のバックには「医信」という若手医師のグループがあり、長谷川をいわばメガホンとして使っていたふしがある(リテラの記事)。そのくせ長谷川が炎上した後、連中は助け船も出さずに口をぬぐって逃亡したようだ。

また、長谷川ほど発信力が無いだけで、内心珍説謬見を信奉している人というのは結構いる。先日も、それなりに名のある大学の教員で、まあその人の専門分野ではなかったものの、ずいぶんおかしなことを言っている人がいて呆れたことがあった。

ところで、これらの話が真に恐ろしいのは、間違っているのは実は私のほうという可能性が常にあるということだ。私はここまでの文章で、気楽に「間違った」考え等と書いてきたが、そもそも自分が間違っているかどうかは、自分だけでは判定できないのである。

ようするに、

  • 誤った情報を学んでしまい、そのまま鵜呑みにしてしまう
  • 批判されたとき、それをきちんと咀嚼して評価することができない

というのが、長谷川的な問題の本質ではないかと思う。これはある程度の知的能力というか知的鍛錬がないと、長谷川のみならず誰もが陥る可能性がある罠である。むしろ、自分は知的で正義だと思いこんでいる、リベラルを以て任じる人のほうが落ちやすい陥穽のようにも思う。

ではどうすれば落とし穴を回避できるだけの知的能力が身につくかというと、それはもう勉強するしかないわけだ。その意味で、私は勉強は自衛の手段だと考えている。しかし間違ったことをひたすら勉強しても意味がないわけで、それなりに戦略的に学ぶ必要がある。この点について思いつくことをいくつか書いてみたい。まあ、私はこうしてるよ、という程度の話でしかありませんが。

インプット

その道の専門家になるつもりなら、本やら論文やらを手当たり次第にがんがん読むしかないだろう。しかし多くの人は何かひとこと言いたいだけで、別にその分野を究めたいわけではないだろうから(もちろん専門家でもないのに口を挟むなという考え方もできるが、それは弊害が多いと私は思う)、最低限のラインをどこへ引くかという話になると思う。

徒然草ではないが、何事にも先達はあらまほしきもので、自分に土地勘のない分野を学ぶなら、本来は指導者というか「先生」がいたほうがよい。ただ、長谷川の取り巻きの医者たちのようにそもそも先生が怪しい人だったりすることもあるので、なかなか難しい。先生がまともかどうかを見抜くことは、原理的に生徒には出来ないのである。若干疑いつつも、あるところまでは素直についていくしかないのかもしれない。先生の名前をネットで検索して評判を探る、というのも一つの手ではあるが。

そんなわけで、先生の存在を前提とせず、それでもとにかくある分野に関して何かもの申したいのあれば、一冊だけではなく、事前に最低三冊くらいはそのテーマに関する本を読んだ方が良いと私は考える。これが最低ラインである。といっても似通った主張の本をいくら読んでも仕方がないわけで、一冊はできれば教科書的なバランスの取れたものがよく、あとは自分の(現時点での)考えに近いものを一冊、そして自分の見解とは正反対の(ように見える)ものを一冊読むとよいだろう(当たり前だが、筆者はそれぞれ違うほうがよい)。レベルとしては、専門書とは言わずとも、せめて新書以上であって欲しい。薄い本でも三冊も読めば、自分が思っていたよりもこの問題は微妙でややこしそうだぞ、くらいの警戒心は芽生えるのではないかと思うのだが。

なお、「バランスの取れた教科書」というのを選ぶのが一番困難なわけだが、まあAmazon.co.jpとかで適当に検索して一番評判が良いもの、というくらいでとりあえずは良いように思う。大学生ならば、その分野に近い教員に聞けばよい。Wikipediaの該当ページも、特に日本語版の場合、記事そのものはあてにならないことが多いが、記載されている参考文献は手がかりにはなる。

熟成

こういうのはただ本を読んだだけではダメで、やはり自分の中で知識を「熟成」させる必要がある。具体的な目安として、ブログも含めて何か公の場で書きたいのならば、自分が賛成する意見はもとより、自分が反対する意見に関しても、ある程度まとまった内容として説明できる、というレベルには最低でも達していたほうがよい。味方を知り、そして敵も知らなければ、説得力のある批判も擁護もできない。また、自分と対立する意見の内在的論理をある程度理解しておかないと、批判された際にそれを適切に解釈することが出来ないとも思うのである。

こうしたスキルを身につけるには、大学のゼミでやるような、輪読→レジュメ作り→人前で口頭発表というのが本来は一番良い。また、立場を入れ替えて、場合によっては自分の意見とは異なる主張を組み立てなければいけないディベートも優れた訓練となる。日本ではディベートというと、詭弁を弄して相手を打ち負かす、というようなあまり良くないイメージがあるように思うが、本来ディベートは個人的な学びの機会だと私は考えている。

アウトプット

私自身は、賛否両論というか、支持が50%、反対が50%の文章を書きたいと常々思っている。支持100%の文章は、もちろん極めて出来が良くて非の打ち所がない、というケースもあり得るけれども、大方は、毒にも薬にもならないから批判すらされない、というケースが多い。せっかく手間暇かけて書くのだから、良きにつけ悪きにつけフィードバックが欲しいのである。実のところ私は、自分よりも賢い人にうまく論破されたいといつも思っているのだが、まあそういうマゾ的な人は少ないかもしれない。

一方、反対が100%に近いとしたら、それは自分の書いたものがおかしい可能性が高いと考えるべきである。もちろん単なる嫌がらせが大多数かもしれないし、批判が多いイコール間違っているというわけではないのだが、少なくとも自分の主張がうまく伝わっていない可能性は高い。なので、反対意見をいつにもまして精査する必要があろう。裏を返せば、思うところを書いて批判に晒されるというのは、最良の勉強法とも言えるのである。

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